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Wednesday, May 27, 2009

大盛堂書店伝説。

渋谷センター街の入口。


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見たことあるでしょ?
ここ、ただの本屋じゃなかったんです。何がすごいって創業者がスゴイ。

舩坂 弘

一部抜粋。

舩坂が生まれ育ったのは栃木県上都賀郡西方村(現在の西方町)である。

(中略)

アンガウルの戦い(Battle of Angaur)は第二次世界大戦におけるパラオ‐マリアナ戦役最後の戦いであり、この戦いで舩坂は多大な戦果を上げることになる。

擲弾筒および臼砲にて米兵を200人以上殺傷。

(略)

瀕死の重傷を負いながらも、舩坂は足を包帯代わりの日章旗で縛ることで止血し、夜通し這うことで洞窟陣地に帰り着き、翌日には左足を引き摺りながらも歩けるまでに回復している。その後も瀕死クラスの傷を何度も負うも、動くことすらままならないと思われるような傷でも、不思議と翌日には回復しているのが常であった。これについて舩坂は「生まれつき傷が治りやすい体質であったから」と、その理由を述べている。

(略)

米兵から鹵獲(ろかく)した短機関銃で3人を一度に斃(たお)し、左足と両腕を負傷した状態で、銃剣で1人刺殺し、短機関銃を手にしていたもう1人に投げて顎部に突き刺して殺すなど、鬼神の如く奮戦を続けていた。

(略)

しかし、食料も水もない戦場での戦いは日本兵を徐々に追い詰めて行き、 (略)舩坂自身も腹部盲貫銃創の重傷を負って這うことしか出来なくなり、その傷口から蛆虫が涌くのを見るにつけ、蛆に食われて死ぬくらいなら最早これまでと、ついに自決を決意している。しかし、思いに反して手榴弾は不発であった。

(略)

戦友も次々と倒れ部隊も壊滅するに及び、舩坂は死ぬ前にせめて敵将に一矢報いんと米軍司令部への単身斬り込み、肉弾自爆を決意する。手榴弾六発を身体にくくりつけ、拳銃一丁を持って数夜這い続けることにより、前哨陣地を突破し、四日目には米軍指揮所テント群に20メートルの地点にまで潜入していた。その時、負傷は左大腿部裂傷、左上膊部貫通銃創二箇所、頭部打撲傷、右肩捻挫、右足首脱臼、左腹部盲貫銃創など大小合わせて24箇所に及び、更に連日の戦闘による火傷と全身20箇所に食い込んだ砲弾の破片により、さながら幽鬼か亡霊のように見えたという。

舩坂は米軍指揮官らが指揮所テントに集合する時に突入すると決めていた。当時、米軍指揮所周辺には歩兵6個大隊、戦車1個大隊、砲兵6個中隊や高射機関砲大隊など総勢一万人が駐屯しており、舩坂はこれら指揮官が指揮所テントに集まる時を狙い、待ち構えていたのである。舩坂はジープが続々と司令部に乗り付けるのを見、右手に手榴弾の安全栓を抜いて握りしめ、左手に拳銃を持ち、全力を絞り出し立ち上がった。突然、茂みから姿を現した異様な風体の日本兵を発見した米兵は、しばし呆然として声もでなかったという。

米軍の動揺を尻目に、舩坂は司令部目掛け渾身の力で突進するも、手榴弾の信管を叩こうとした瞬間、頸部を撃たれて昏倒し、戦死と判断される。駆けつけた米軍軍医は、無駄だと思いつつも舩坂を野戦病院に運んだ。そのとき、手榴弾と拳銃を握りしめたままの指を一本一本解きほぐしながら、米兵の観衆に向って、「これがハラキリだ。日本のサムライだけができる勇敢な死に方だ」と語った。

しかし、舩坂は3日後米軍野戦病院で蘇生する。当初舩坂は情をかけられたと勘違いし、周囲の医療器具を叩き壊し、急いで駆けつけたMPの銃口に自分の身体を押し付け「撃て!殺せ!早く殺すんだ!」と暴れ回った。この奇妙な日本兵の話はアンガウルの米兵の間で瞬く間に話題となり、伝説と化した。舩坂の無謀な計画に恐れをなしながらも、大半はその勇敢さを称え、「勇敢なる兵士」の名を贈ったという。 元アンガウル島米軍兵であったマサチューセッツ大学教授のロバート・E・テイラーは、戦後舩坂宛ての手紙の中で、「あなたのあの時の勇敢な行動を私たちは忘れられません。あなたのような人がいるということは、日本人全体の誇りとして残ることです」と、讃辞の言葉を送っている。

その後、数日の捕虜訊問を経て、舩坂はペリリュー島の捕虜収容所に身柄を移される。このとき既に「勇敢な兵士」の伝説はペリリュー島にまで伝わっており、米軍側はとくに“グンソー・フクダ(舩坂は所属が判らぬよう福田という偽名を使っていた)”の言動・行動には注意しろと、要注意人物の筆頭にその名を挙げるほどになっていた。しかし孚虜となっても舩坂の闘志は衰えず、ペリリューに身柄を移されて2日目には、瀕死の重傷と思われていたことで監視が甘く、収容所から抜け出すことに成功。1000メートルを潜んで行って日本兵の遺体に辿りつき、弾丸入れから抜き取った小銃弾の火薬によって、米軍弾薬庫の爆破に成功している。

戦後

その後、舩坂はペリリュー島捕虜収容所を去り、グアム、ハワイ、サンフランシスコ、テキサス、と終戦まで収容所を転々と移動し、昭和21年に帰国した。 故郷では、当然舩坂は戦死したものと思われており、舩坂が故郷に帰って一番初めに行ったことは「舩坂弘之墓」と書かれた墓標を抜くことであったという。

戦後復興の中、戦争での強烈な体験から舩坂は、この眼で見てきたアメリカのあらゆる先進性を学ぶことが、日本の産業、文化、教育を豊かにすることではなかろうかとの思いから、書店経営を思い立つ。舩坂は渋谷駅前の養父の書店の地所に僅か一坪の店を開き、帰って来た戦死者としての余生を、書店経営で社会に捧げたいとの思いにぶつけた。これは日本で初めての試みとなる、建物を全て使用した「本のデパート・大盛堂書店」の創設へと繋がった。

また、個人の戦闘記録としては唯一戦史叢書に載せられている。 戦史叢書の『陸軍作戦史二巻』には、「船坂軍曹は、激戦ののち重傷、最後に敵将に一矢を報いんとして──中略──三日間意識不明、死の世界を彷徨し、米軍に手厚く看護され蘇生。昭和二十一年正月、奇跡的に復員帰国した」とある。

三島由紀夫とは剣道を通じて親交があり、舩坂の自叙伝である『英霊の絶叫‐玉砕島アンガウル』の序文は三島が寄せている。また舩坂は、自決の際介錯に使われた三島自慢の愛刀、関の孫六(後代)を贈った人物でもある。この経緯を詳しく記した著作が残されている(『関ノ孫六』光文社カッパブックス 1972年)。

舩坂は『英霊の絶叫』のあとがきに、アンガウル島に鎮魂の慰霊碑を建立することが自らの生涯を賭けた使命と記した。これは後に同書を読んだ人々からの義援金の助力もあって実現し、以後、戦記を書いてはその印税を投じ、ペリリュー、ガドブス、コロール、グアム等の島々にも、次々と慰霊碑を建立した。また、書店経営の忙しさの中でも、アンガウル島での収骨慰霊を毎年欠かすことはなかった。その後、遺族を募って慰霊団を組織し現地墓参に引率し、さらにパラオ諸島原住民に対する援助や、現地と日本間の交流開発に尽力。また、数年にわたる戦没者の調査と遺族への連絡等々、精力的に活動を行い、その人生を捧げた。

これらを指して、舩坂を知る人たちは「生きている英霊」と舩坂を呼び、業績を称えた。

しかも亡くなったの2006年ですってよ。最近の人じゃん。英霊。こりゃ靖国でも英雄だな!

戦争も殺し合いもしたくないけど、こういう魂は時代を超えて受け継いでいかなきゃいかんね。

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Comments

昔のビルの地下にミリタリーグッズのお店があったのはそういう由来があったからなんですね。友達(勿論女の子)が米軍グッズ買ってました。

あと大盛堂伝説と聞いて怪談の事だとばかり。見える設定の人達はみんな出るって言ってました。

Posted by: koz | Thursday, May 28, 2009 00:19

109の上にあったコミック専門店も大盛堂でしたっけ?

確かコミケのカタログも扱っていて、109の中にあるオタクの前線基地みたいな本屋だったような記憶が。

Posted by: GK | Thursday, May 28, 2009 01:06

ちょっとスゴすぎてかえって笑っちゃったYO!
たぶん笑っちゃいけないんだろうけど。
俺はこういう精神力はないんだよな。
こういうのってなんか食うとできんの?
カクセーザイとか。リゼルグ酸ジエチルアミドとか。

Posted by: nomad | Thursday, May 28, 2009 23:43

むしろ作り話とかホラの類いだったらもうちょっと加減すると思うの。

> 見える設定の人達

いいですいいです、見えなくていいです。

Posted by: udon | Wednesday, June 10, 2009 18:00

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